アイヌ語の受動文の受動者に関する一考察

佐藤 知己

アイヌ語の受動文における受動者名詞句の主語性に対しては,すでに,形態論的な観点からの疑問が出されているが,統語的な観点からの細かな分析はまだなされていない。本発表は,以下のように,筆者の調査した北海道静内方言の資料によって,アイヌ語の受動文の受動者が主語的に働かないこと,当該の受動文が斜格の動作主を含むか否かで統語的性質が異なる場合のあること,の2点を述べた。
アイヌ語では,主語が再帰接頭辞 si- を生起させるが,受動文の受動者は再帰接頭辞を生起させない。
nispawenkamuy'utar'orwaφ-'osmake (*si -osmak)wa'a -kikhaw'an
旦那悪 者たちから3pers.後ろからPASS叩く
‘旦那は悪者たちに後ろから叩かれた’
次に,願望を表す助動詞 rusuy を用いた埋め込み構造では,補文と主文の主語(の人称)が同一の場合は補文標識 hi をとらず,主文の主語(の人称)は削除されるが,受動文では以下のごとくそれらが現れる。
to'onkorsiunarpeorwaan - omaphiφ-kirusuykotomanna
あの子供おばさんからPASS - 愛するCOMP3pers.-するたいよう
(*an- 'omap rusuy kotom 'an na)
‘あの子はおばさんにかわいがってもらいたいらしい’
しかし,斜格の動作主がない場合には,削除のおこる例がある。
korsi'utar'anak'ipokaskonno,po'a-'omaprusuypenena
子供醜いなお人は可愛がるたいもの
‘子供は,器量が悪いと,なおのこと,人は可愛がりたく思うものだ’
したがって,斜格の動作主の有無も,アイヌ語の受動文の統語的考察では極めて重要である。すなわち,動作主を伴う受動文において従来不定人称主格形と同じものとされていた 'a- は,受動の単なる形式的要素として機能しているとみられる。それゆえ,不定人称主格形とは別な扱いをすべきことを合わせて指摘した。